首都圏の米どころ、茨城県の最北部・久慈郡大子町山田の地は、 中山間地域にありながら、日照時間に恵まれて 日渡の田 と呼ばれ、 八溝山系の清水とあいまって、古くから良質米の産地として知られてきた。
日渡の田 で米づくりを担う大久保憲治・秀和親子は、 江戸時代から稲作を続けてきた歴史をもつ農業者として、 日本の稲作文化を受け継いで、守り育む気概を胸に米の栽培に取り組んでいる。
「全国のお米まつり inしずおか2006」最優秀賞受章者の誇りと 生産への頑固なこだわりをもって、本当の食味豊かな美味しい米を届ける。


 「動機はちょっとしたもので、自分たちが作っている米、よそのよりはまちがいなくうまいって思っているんで……。とはいっても、実力なんか測りようがない。モヤモヤしてないで、それなら試してみるかって……」
 「清水の舞台」から跳びおりるほどではなかったにせよ、大久保憲治と長男・秀和親子には、茨城の奥久慈、大子町という山里に根を張る稲作農業者としての意地にも似た、ある種、熱い想いがあった。生産と流通の量がなぜか合致しない地域ブランドが、幅を利かせるお米の世界だ。自然を相手に日夜、奮闘努力しながらも、有能有益な生産者として世間に認められ得る機会は少ない。
 「静岡県で米のコンテストがある。有名な米産地でない分、土地柄にこだわらない公平な審査だという評判だ。国連食糧農業機関の日本への出先と、農林水産省も後援してる。出品してみたら」
 2006年夏、知人の勧めに従って、ひそかに自慢のコシヒカリを送り出した。精米10キログラムに栽培履歴書を添える。初めての挑戦だった。期待と不安、なにやら受験生の気分ではある。稲の収穫も無事に終えて水田にひこばえが目立ち、霜が降り始める。11月下旬、豊かな水を恵んでくれる八溝山系がひときわ鮮やかな紅葉に染まる晩秋になって吉報は舞い込んだ。
 「貴殿の生産・出品されたコシヒカリ米を最優秀賞とし、『おいしさ日本一』に選定しました」
 稔りをもたらす小さな稲の花どころか、その何十倍にも比する巨大な桜花が咲いたのである。
 2004年に静岡県の肝煎りで始まった「お米日本一コンテスト」(主催・全国お米まつりinしずおか実行委員会)は、いまや世界共通目標ともいえる「安全・安心」をまず基本の条件に、これをクリアした日本全国の出品米から食味ナンバーワンを選ぶ、これまでにない試みだ。
 大久保親子がそこへ送り込んだ2006年は、第三回にあたる。米どころとして有名な新潟や宮城、山形、秋田県を含む全国38道府県から個人、法人あわせて315点にも上る「米自慢」が並んだ。コシヒカリ、ひとめぼれ、あきたこまち、ササニシキなど、いずれも味自慢の自信作二三品種で難関を競う、三日がかりのサバイバル・レースでもある。
 「うちの米がここで30番以内に入ったなら、生産者特有の口ばかりの自己宣伝じゃない、信頼関係が第一の特別栽培米を実際に食べてくれている人たちに認めてもらえると思ったのです」と秀和が振り返る。案に相違して目標だった三〇番圏内を悠々とクリアしたうえに、なみいる自信作を追い抜いて、最優秀賞という大金星を射止めてしまった。
 大久保農園(大子町山田)の主体は、町の農業委員も務める憲治(1946年生まれ)と長男・秀和(1971年生まれ)の親子である。白髪の父、精悍な青年、目配せで通じる以心伝心の組み合わせだ。
 山なみの奥に福島・栃木県と接する茨城の最高峰・八溝山(標高1022メートル)がそびえ立つ。清流、久慈川の水源地であり、また奥久慈と土地柄を象徴する山だ。深い谷を八方に配し、そこを流れる水が、沢や川、または地中の伏流となって山野をうるおす。
 大久保農園もまた、八溝山塊の自然がもたらす豊かな水の恵みを受けてきた。丘陵に囲まれた田園地帯。畑には特産のコンニャクやそば、北限の茶畑__。盆地状の底部を久慈川の支流・押川が流れ、沿岸部に町一番の広々とした水田が広がる。  豊かな水、肥沃な土、そしてさんさんとふりそそぐ太陽の恵み、盆地ゆえに昼間の暑熱と夜半の冷涼が交錯する、いわば寒暖の気温差の大きさ。親子が通ったなつかしの母校・町立上岡小学校の校歌に、「日渡の田んぼ/風そよぎ/とんぼ飛びかい/みのりもゆたか」という一節があった。押川沿いの水田は「日渡の田んぼ」、つまり東西に拓けて夜明けから日没まで太陽の恵みを受ける稲作には絶好の自然環境を示す。加えて、大久保親子の稲作にかける情熱。天・地・人の三位一体から、「日本一おいしい米」は生まれた。
 耕作面で好条件に恵まれながらも、逆に社会的なハンディは大きい。高齢化、後継者難、働く場の不在による若者の流出など過疎化の波は、いまもなお、おさまってはいない。ハンディは、土地柄が中山間地で耕作をあきらめざるをえない場面へと結びついてくる。
 こうしたハンディのなかで、中山間地で生きのびる手だてを時代の変化に即して選びとったところが、大久保農園のユニークさだった。
 長男・秀和が、地元の高校から茨城県農業大学校へ進む。「これからは農業もコンピューターの時代。つかいこなせるようでないと農家もジリ貧になる」と、若いころアマチュア無線通信に興じたこともある機械好きの父・憲治の勧めもあった。
 「米をとりまく時代環境は大きく、しかもがらりと変わる」と見すえてきた憲治の予感はやがて的中する。水田耕作もまた、「大きく農業をやってみたい」と念じていた秀和の願望に応えるように、耕作面積も広まっていった。
 苗づくり、肥料づくり、潅水や水抜きなどの管理__稲にかかわるあらゆる手だてを親子を中心にこなす。現在手がける水田は、60枚、約12ヘクタールに及ぶ。
 秀和は、「一枚一枚の田んぼに個性があって、どの手法が最適か考えたり、方法を変えたり……」と研究に余念がない。見守る父・憲治は、棚田を含む田んぼをくまなくめぐって日々の変化に眼を凝らし、自然がはぐくむ米の神秘さに今も向き合っている。